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「大塚史学」のエッセンス

「最後のエッセンス」は何か

さて、先生のお仕事はこのように大変幅が広く深いわけで
すが、先生は、「難しいことを追及していった最後のエッ

センスは、案外、易しいことに落着くんじゃないか、そして、そこに行き着くのは、心の素直な人でなくちゃだめじゃないかという気がするんです」と述べられています。 この「最後のエッセンス」とは何なのか。これと同じことか、いやちょっと違ったことかとも思いますが、先生は日頃、「学者は簡単な、しかも重要なことをしっかりもってなくちゃ駄目です。そうでないと、学問をやればやるほど駄目になりますよ」と、学問を志すものにとってははらわた(臓物)をえぐられるようなドキッとしたことを、こともなげに言われる困った癖がおありでした。 先生の著書だとか、あるいは授業、お話というようなものでもそうでしたが、それらは、あれもこれもの概説ではありません。 非常に広い、深い史実の理解、認識の中から、例えば『欧洲経済史序説』の場合ですと「近代化の決定的なモメントは何か」という一点に絞り込んで、よけいな枝葉を省くという、概説ではなくて「序説」のスタイルがとられています。先生の学風には、現在との対話という意味での歴史である以上、概説など書いちゃいられない、というか、「ちょっと事情を変えればおまえたちの問題になるんだぞ」といいますか、ムターティス・ムタンディスというんですか、つまり醒めた学問のことだと思っていると、それがいつの間にか生々しい時局論的な発言と二重写しになっているといった突きつけがあります。 先生の講義は内容が高度であると同時に分かりやすさといいますか、達意な名講義でした。 先生は「講義のコツは適当に忘れることだ」と言われたことがあります。「講義で話をするときには、頭の悪そうな学生を見つけて、その人が頷くように、その人を頷かせるように話をするんだ」とも言われました。著書や論文も、非常に高度なことが書いてあるのですが、しかし、必ずしも難しい文章ではなくて、それなりに理解できるはずです。どうぞ、ここにおられる学生の皆さんも「文庫」ができた機会に大塚先生が書かれたもの、あるいは大塚先生が読まれたものから、大切なことを学び取っていただきたいと思います。

バブルを拒んだ経営者の魂

先ほどの、難しいことをやっていって結局最後のエッセス
は、案外易しいところに落ち着くんじゃないかと言われた、

その「最後のエッセンス」とは何だったのかということで、脱線してしまったのですが、それについてここで答案を書くことは私にはできません。 とりあえず、絶筆となった、それこそ易しい短い文章のメッセージに今は注目しておきたいと思います。亡くなられる2日前の新聞の「古典礼賛」というコラムですが、このコラムで大塚先生は『ロビンソン・クルーソー漂流記』を取り上げられました。配達された紙面に目を通してご自身で頷いておられたということです。 ロビンソン物語は先生の十八番中の十八番で、しばしばお子様たちが小さいときに話して聞かせておられた。 大塚家には「ロビンソンごっこ」というゲームがあったとも聞いています。この『ロビンソン・クルーソー』、ダニエル・デフォーの作ですが、出版された翌年、1720年には南海泡沫事件で経済が破綻するという出来事があります。 バブルがはじけた。ダニエル・デフォーは、このことをまるで予言するように筋書きを作っている。 一攫千金の荒稼ぎを夢見る血気さかんな若いロビンソン、お父さんはそれを非常に心配して、「そんな一攫千金の夢のようなことを言って海外でぼろもうけしようというよりは、イギリスの中産層の派手ではないけれども堅実で地道な生き方がいいんだよ」と年中言って聞かせるんですけれども、しかし若いロビンソンは親父の言うことなんて聞くどころではなく、逆に反撥して、海外に船出する。そのバチがあたって、と書いてあるんですが、神がそれを罰して難波させ、ロビンソンは孤島に一人漂着する。 そこでお父さんの忠告を思い出して新しい建設的で合理的な生活、倫理的で勤勉な中小市民層の生活を孤島で実践するというのが、ロビンソンの物語の筋書きです。 大塚先生はそれを紹介されて、短く、この倫理的で勤勉な中産市民層の生活様式こそ「近代の合理的経営の原型」であり、「バブルを追い求めることを拒んだ近代的経営者の魂」があそこにあったと、力をこめて強調されているのです。 《企業や資本主義が倫理的であり続けることは難しいが、倫理を喪失した企業や資本主義は崩壊する》というのが先生の最後のメッセージであったと思うのです。

「理念型」的方法と

ただし、このロビンソン物語については、大塚の考えは欧米の歴
史をバラ色に美化して日本をその方向へ導こうとするものだ、と
いった誤解があります。大塚はこうした批判をあらかじめ予想し
リアルな人間理解
て、「わが国はイギリス=アメリカでもなくロシアでもない。 それどころか西洋ではなくして東洋に属する。 しかもその東洋のうちのほかならぬ日本である。 いっそう重要なことは、すでに世界史の段階がおのずから異なる」と述べ、ただし、日本的なものを独善的に前提して日本的なゆえに肯定するのではなく、「批判的比較の座標を世界史的規模において正確に設定」することによって、その中で正確に日本の特徴といえるものを、あるいは日本の行く道というものを模索すべきだと、そういうふうに説いておられます。ロビンソン的な人間類型というのは、そのための「理念型」であり、それだからまた有効な比較基準になるというのです。

 現実の中産的生産者層には、デフォーの『ロビンソン物語』と対比して大塚先生がしばしば語られるのですが、スウィフトの『ガリバー旅行記』が辛辣に皮肉っているように、暗い面というか営利欲と征服欲、そうしたエゴイズムの面がまとわりついていました。 大塚はそのことを見逃してはいません。そのうえで、しかし、デフォーが「そういう面には目をつぶって」中産的生産者の「良い面ばかりを」描いている、特にその経営的な素質だとか冷めた合理的な行動様式を前面に押出して、中産的生産者の行動様式の「理念像」、あるいは、あるべき「理想の人間像」を描き出したことに大塚は注目したわけです。現実の中産層は理念型としてのロビンソン的人間類型よりははるかに複雑で多面的な顔を持っている。ときには欲望に流され、投機や談合や利権あさりに走ったり、「怠惰な富者」と呼ばれたジェントルマンの生活様式にあこがれて、これを模倣しようとしたりする。 しかし、また、悔い改めて合理的で勤勉な経営と労働の生活に立ち返る。そうしたせめぎ合い、揺れながらの存在であったと思われます。そういうリアルな人間理解を大塚も重視しています。

バラ色の「期待され

そのことで一つのエピソードがあります。1965年、そのころ
私は大塚先生と同じ東京大学経済学部の教授会のメンバーでした
が、中央教育審議会が「期待される人間像」の中間草案を発表し、
る人間像」を批判
これに対して教授会の見解をまとめたことがあります。 見解の起草は、当然のことのように大塚教授にお願いすることになり、そのせいで教授会としては珍しく、格調の高い見解ができたのですが、私の手もとに、今、先生の肉筆で書かれたコピーがあります。教授会の資料なので「文庫」にはないと思うんですけれども、そこにはこう書かれています。「政府の側からこのような形で理想の人間像を示すということは、倫理の本質にてらして、妥当であるとは思われない。『期待される人間像』はむしろ、日本人一人びとりの日々の生活を通して、そのなかから生れでてくるようなものでなければならない。」そう釘を刺してから、こう続けられています。「かりに百歩をゆずり『期待される人間像』のようなものを示すことに意義があるとしても、それは、人間性のうちにひそむ暗い面までも見透した、リアルな人間理解の上に立つものでなければならないのではないか。人間性の明るい面のみをもって楽観的に構想された理想像の鋳型の中に、現実の人間を押しこもうとするならば、内面的にも社会的にも悪に抵抗して真に建設的でありうるような強く頼もしい人間の形成という教育効果は期待し得ないばかりでなく、むしろ教育の場に新たな混乱を導き入れることになりかねないのではないか。」

「悔改め」のテーマと

バラ色の人間像を掲げて日本人もこうあらねばならぬというよう
な号令をかけるということでは駄目だ。
それでは人間変革などは
できるはずもないということを強調されているわけです。
実際
「民主主義の民主化」
『ロビンソン・クルーソー』もそうでしたが、デフォーの描く世界には「悔い改め」の場面がよく出てきます。 一攫千金を夢みて冒険航海に乗り出したロビンソンは、天罰の台風で孤島に漂着し、父の教訓を思い出して悔い改め、地道な中産層の生活に立ち帰りました。そのほか、デフォーにはいろんな小説や戯曲があるのはご存じのとおりですが、その『ロクサナ』とか、あるいは『モール・フランダース』の再婚話にしても「悔い改めのテーマ」というか、「レペンタンス・テーマ」が重要な主題になっています。 ですから、デフォーの世界とスウィフトの世界といいますか、合理的な近代市民的な思考・行動様式と、それから冒険主義や高利貸し的な伝統主義的・賎民資本主義、そういう二つの「資本主義」の流動的な転化、相互転化と回生といいますか、悔い改めの現象が年中現実の歴史の中では起こっている。 ダニエル・デフォー自身がそういう経歴を生きた人であったように思います。「二股膏薬だ」なんて当時言われていたようですけれども、近代的と前期的、二つの資本の「範疇転化」といっていいか、「対抗と絡み合い」といいますか、そういう激動のなかで資本主義が成立し確立する。 丸山真男が「永久革命」としてのデモクラシーということを強調される、また、アンソニー・ギデンズが「民主主義の民主化」を課題とする、そうした「近代化過程としての現代」ともいうべき歴史の見方の背景にも通じることではないかと思うのです。
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