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近代化と現代  −西欧「近代」の普遍史的意義を

「現代」的視点から相対化しつつ解明する−

二つの合理性の相剋

ところで、そうしたロビンソン的人間類型というか合理的経済人
が作り上げたその近代西欧の経済的合理主義といいますか、これ

は、ヴェーバーも指摘するのですけれども、「形式的合理性にとどまり、その内部に強烈な実質的非合理性を含んでいる。」ここで、形式合理性というのは目的合理性、高次な目的合理性を意味する概念だと言ってもいいでしょう。つまり諸事象の因果関係をきちんと把握する、それも、数理的に・数学的に明晰に認識するという合理性を意味しています。これによって歴史上、簿記、科学技術、近代法の理論、あるいは近年では設計科学的な思考と実践が誕生しました。全面的な合理化、世界の呪術からの解放があり伝統主義や冒険主義的な非合理性が克服されて、的確な予測と対象の操作可能性、目的達成の効率性が向上する。現代は複雑系社会ということで、つまりそうした予測というものが逆に難しくなるという点もある、そういう複雑な社会が現代と思いますが、しかし、いずれにしましても、資本主義文化は形式合理性の力で世界的に拡延して、全人類にとって運命的な意味を持つ存在となっているわけです。しかし反面、ヴェーバー、あるいはヴェーバー=大塚理論によると、形式合理性の独走はついには社会全体を管理社会の鉄の檻で統括し、そのなかで実質的には分配の不公平とか経済的貧困、また過度な経営化と人間疎外、精神的貧困の問題も生じてくる。この「鉄の檻」と化した形式合理性文化の根底的な非合理性を白日の下に曝すこと、これが現代の課題だと大塚先生は述べています。ヴェーバーは『経済史』の講義のなかで、「形式的合理性と実質合理性との相剋」というか矛盾対立と絡み合い、相剋はカンプ、戦い、ですが、これを明らかにすることが経済史の課題だと論じています。その意味で、「経済史」にとっては近代化、あるいは現代化、そういう全面的な形式的合理化は、歴史の終焉を意味するのではなくて、正に「歴史の第二幕の幕開け」となるわけです。 そして、その課題、形式合理性と実質合理性の相剋という主題は、実際に例えば先進国では経済的繁栄と精神的貧困だとか、あるいは自然と社会の接点におけるバランスの喪失だとか、そういう問題として登場して、それが大塚久雄の注目するところとなっています。

南北問題と

グローバルな規模でみると、最も現代的な課題は「南北問題」で
す。
国際基督教大学(ICU)での大塚ゼミの同窓会は「フライデ
 ーの会」というそうです。  東大での同窓会はイギリスの独立自

「Uターンの論理」

営農民にちなんで「ヨーマン会」といいましたが、ICUでの同窓会は、ロビンソン・クルーソーの黒人サーバントにちなんで「フライデーの会」と命名されたのです。 ロビンソン・クルーソーの孤島の中でさえ「南北問題」があったということに注目されていたわけで、先生の「南北問題」の重視が窺えます。 援助や技術移転はあっても南北の格差は縮まらずむしろ拡大しつつある。その原因としては、確かに従属学派が指摘するように、列強による途上国支配が存在します。 中枢の発展が貧富の拡大の重要な原因だということは誤りではありません。 しかし低開発問題の核心はそこにはない。 むしろそうした帝国主義的な、また、ネオコロニアリズムの支配、あるいはグローバリゼーションの圧力  それらは低開発諸国の経済的な自立と自発的、内発的な発展にとっては、いわば制限的な要素であるわけで、むしろそうした支配や圧力  という阻止的条件をはねのけて、低開発諸国が経済的な自立と自前の近代化に向かって歩み出す内発的な「Uターンの論理」の構築こそ低開発問題の核心である、というのが大塚先生の考えでした。そして、この「Uターンの論理」を構築するうえで、近代西洋の歴史的経験に学ぶという発想が問題発見の役割を果たすのではないかということが強調されています。 更に大塚は、低開発諸国や後進諸国の社会や経済には、従来の社会理論や経済理論、つまりヨーロッパの先進諸国の、しかも多くは近代の経験や事実に基づいて作り上げられている「現代の社会科学の諸理論ではとうてい割り切れない、捉えきれないような深い底がある」と述べ、ヨーロッパ的な文化だけでなくて、広く他の非ヨーロッパ的な文化をも込めて正当に理解しうるような「社会科学の一般理論」をどうしても構築しなくてはならない、と説かれているのです。 

多文化共存の

ロビンソン的人間類型が歴史上どういう文化的意義を持つかというと、
大塚によれば、それは一つには、現実の17〜18世紀イギリスの歴史
の流れの中で近代市民社会を築き上げる担い手の文化という意味を持っ

「一般理論」

ている。しかし同時に、社会科学における諸理論が、とりわけ経済学が生まれてくるに際して、理論形成の前提となり認識のモデルとなったのがロビンソン的人間類型なのでした。 合理的な「経済人」を前提とすることによって近代の経済学や社会科学が成り立ち得ているわけです。そのことはしかし、現在の経済学、あるいは社会科学の射程にはグローバルにみて大きな限界があるということを意味しています。 その限界なり欠陥を補う作業として、「ロビンソンとは違った人間類型を前提としながら、どういうふうにして社会科学の理論、あるいはシステムを組み立てていくことができるか」がこれからの研究課題とならなければならないと、1970年前後に大塚先生は指摘されております。世界史上の多様な文化圏、さまざまな人間類型、その比較文化論的な理解を軸にして旧来の社会科学的理論を相対化し、インターディシプリナリーあるいはトランスディシプリナリーな、学際的・超領域的な総合化による一般理論の形成を模索し始められたのです。そのさい、非ヨーロッパ的な文化圏における人間の行動様式だとか、あるいは西洋でも近代以前の経済史上の諸事実を含めて、これまで「経済学の周辺」に追いやられてきた歴史的経験が新しい理論形成に重要な役割を果たせるはずだ、また果たさなければならない。それだけに歴史家がそういう理論形成の任務を分担しなければならないと考えられていたと思うのです。

経済学の文化的限界

一般理論を必要とするに至ったもう一つの決定的な原因は、「精
神的な貧困」という現代的な病理でした。物質的な豊かさに努力
を集中してきた経済学の文化的な限界を自覚して、経済という文化領域は他の文化諸領域とどのように関連し広い人間生活の中でどのような位置を占めているかという問題について改めて考察を深めることが求められています。経済に限りません。大塚は現代科学が「理論的専門化」といいますか、研究分野の細分化、タコツボ化におちいって、複雑な現代社会の諸事象、諸病理を把握し対応し切れていないことを指摘して、特定の課題の解決に向けて多くの研究分野が垣根を超えて結集する、テーマ凝集的な「実践的専門化」の重要性を強調されました。 ガンならガン、あるいは環境なら環境というようなテーマへの実践的な専門化ですが、そのためにディシプリンとしては学問領域を超えて総合化していく、その意味では「理論的総合化」、そうした形で超領域型研究様式の開発を提唱されていたわけです。

「日本人の眼」で

しかも大塚はこの新しい一般理論の形成に「日本人の眼」が大きな
貢献を果たせるはずであり、その努力が「日本の社会科学を作り上
げていく」、と強調しています。経済の高度成長を果たしたけれども「心の貧しさ」と資源エネルギー、環境問題を激しく経験した日本、アジアの文化の流れに位置しながら西欧文化を受容し変容した日本人、そういう立場で文化比較を試みる場合、ただ欧米起源の「方法的枠組をもらってきて、それにアジアの対象的事実をつめこんでお返しする」のでは物足りない。 欧米の偉い学者がクェスチョネールを用意してきて、それに日本の学者が日本ではこうでしたと答えていくだけでは寂しいんじゃないか。われわれも「方法的枠組を作る、あるいは、作りかえるという仕事に参加」すべきではなかろうか、ということです。談合や派閥・人脈、過当競争と独占癖、身内と余所者、そうした事柄を「すべて背後で一つに繋がり合っているような文化事象としてシスティマティックにつかみうるような」一般理論を構築しない限り、経済現象と文化現象、経済摩擦と文化摩擦を「理論的に接合させ、現実に役立たせる」ことはできるはずもない。 そういう大塚先生の発想を見ていますと、大塚史学はいったい「日本の現実に立って、つまるところ何を意味しているか」と設問して、「せいぜい、[まだなお]『現代的意味がある』といったていどの平板でぼやけた認識」で応答するのでは、これは内田義彦先生が生前に嘆かれていたことなのですが、それでは到底すますことはできないんじゃないか、と考えさせられるわけなのです。
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