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未来社会の設計に向けて

近代文化と伝統社会の思惟

こうして大塚は比較文化の立場に立ち異質の文化、あるい
は異質の人間類型に対して自由な態度をとり得るような

「文化人」が必要だと力説されますが、それと同時に、社会科学は多様な人間類型を「価値批判」することによって理想的な人間像の構築に対してそれなりの寄与をすることができるはずだと論じておられます。 そのさい、これは注目すべきだと思うのですが、先生は「一方では『ロビンソン的人間類型』の達成とその帰結を、他方では非ヨーロッパ諸地域における伝統主義的な『共同体的人間類型』の達成とその帰結をつぶさに分析し、それぞれのなかで将来に向かってプラスに働くであろう面とマイナスに働くであろう面とをふるい分け」、それらの諸事実を提供して人々が理想的人間像を構想する材料とすることができると論じているのです。だから、ヴェーバー=大塚理論の場合、近代市民の倫理・精神はもとより、伝統主義の思考・行動様式でさえもが必ずしも全面的に拒絶、廃棄されるべきものではなくて、プラスの側面があればそれを未来社会の理想的人間像の中にアウフヘーベンしていく、より高められた形で生かしていくということまで考えながら、実質的な合理性の未来世界を構想しようとしています。

「甘え」の現代化

もちろん、近代ヨーロッパ文化の中では抑圧され封じ込められてき
た『甘え』の構造、それがはるかに昇華された形で「もう一度現わ
れてくるべきだし、また現われてこざるを得なくなる」と語る場合、「へたをするともう一回単なる先祖返りというか、昇華されないままの形で、歴史的に低いレベルで」甘え、あるいは伝統主義的な甘えの意識、甘えの構造が復活してくるという「危険もはらまれているが」、その道は絶対に遮断しつつ、そのうえで、「単なる形式的(フォルマール)なものを超えて実質的(マテリアル)なものを復活させるために」「あるべき昇華された姿での『甘え』を復活させる」ということが重要になるというわけです。現代社会、あるいは未来社会、鉄の檻、そうしたシステム社会としての現代社会に対してカウンターウェイトといいますか、カウンターバランスといいますか、鉄の檻システム社会に対する対重としての役割が「甘え」の構造に期待されている。 そうしたものがあって初めて現代社会は成り立つ、と考えられているといってよいのではないでしょうか。

「新しい共同体」

同じことは、「新しい共同体」についての大塚先生の展望のなかに
も読みとれます。「『むら』共同体がつぶれてしまったあと…人び
とが砂粒のようにバラバラになってしまう、それが共同体の解体で

(アソシエーション)

あり歴史的に望ましいことだ、などとは私は考えていません。 むしろ、日本の現状がそういう方向に動いていることを憂えているのです。」近代化のプロセスにみられたインディヴィデュアライゼーションは、プライバタイゼーション、あるいはアトマイゼーションではなかったという丸山真男の指摘と重なる議論ですが、こう述べて大塚は、「市民社会と民主主義にふさわしい新しい共同体」を提言しています。それは内と外の区別、身内と余所者の差別を持つ村共同体の復活、そういう経済的共同体の系譜を引くものではなくて、さしあたり「宗教的共同体の系譜を引いてその世俗化のなかから生まれてくる『社会的共同体』」を原型とするもので、歴史的にはゼクテが世俗化してクラブを生み、コミュニティをつくりだす、その過程がモデルとされているのです。市民のボランタリーな結社としてのアソシエーションが連なるネットワーク型の社会、そういう社会原理が、管理型システム社会の鉄の檻へのカウンターバランスとして求められ構想されている。そうした二つの、システム化とネットワーク化の合成物として現代社会、その未来像が、形式的・実質的な合理性のバランスし合った構造として展望されているのだと思います。

 もちろん大塚は具体的な現代社会像、未来社会像を描いているわけではなく、現代社会論・未来社会論の本格的な展開は後進の課題にゆだねられています。 ガーベ(成果)として与えられているのではなく、アウフガーべ(課題)として提示されているというべきなのでしょう。 しかし大塚のこうした歴史的な「現代」への鋭い「現在」的関心は「現代(その病理)の超克」を射程におく「超現代」の立場であり、歴史的「現代」に対する「現在」的な批判として大きな意味をもっています。

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