『書燈』 No.22(1999.4.1)

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図書館と講義とレポートと  教育学部 黒沢高秀


 私の講義ではしばしば福島大学の図書館や教育学部の情報教育演習室を利用します。情報の収集や活用能力が、大学に入った後のその人の可能性に大きく影響すると考えているからです。情報には信頼性、独自性、新しさなどの質があります。得られた情報の質を判断すること、そして質の良い情報を効率よく集めることは、直面している問題を解決するカギになります。

 初等理科教育法という講義では、情報の収集力と得られた情報の質の判断力をつけるために、図鑑の使い方を勉強します。図鑑にも、専門家が新しい知見などを盛り込んで多大な労力をつぎ込んで作り上げたものから、あまり専門的でない人が他に出版されている図鑑の文をつなぎ合わせて作ったようなものまで、いろいろとあります。良い図鑑かそうでない図鑑か(つまりその図鑑が質の良い情報を提供してくれるかどうか)を見抜くのも、図鑑の使い方の一部です。教員になったら、子どものためにも出版文化のためにも、学校の図書室に良い図鑑を多少値段が張ってもそろえるようにしてほしい、ということを授業の中で話します。子どもに専門的な本を与えるのは無駄であるとか、もったいないとかいう考えの間違いを今更ここで指摘するまでもないでしょう。

 理科概論と共通教育の講義では、情報の収集力と活用能力をつけるために、試験レポートをしばしば課します。図書館などで文献を調べて、講義で教えた内容の一部を講義より詳しくまとめるという課題です(この文章を読んでいる方の中にも、私のレポートを書いた人が何人もいることと思います)。この課題を始めた昨年は、集まったレポートを見てとてもショックを受けました。大半の人は文献を丸写し、一字一句全く変えずにひたすらタイピストに徹したレポートもかなりありました。大半が丸写しの2教科300本のレポートを読むのは大変な苦痛でした。社会に出て、例えば会社や役所で、ある問題についてレポートをまとめるように指示された時、他の文献や報告書を丸写ししただけのレポートを提出したら、その人の社会的地位は危うくなります。なぜこんなことをするのでしょう。丸写しのレポートを書いた学生達を呼び出して、理由を聞いたところ、私は大きな誤算をしていたことがわかりました。多くの学生にとって、これまでレポートといえば「感想レポート」ばかりであって、何かのテーマについて情報を収集し、それをまとめるレポートは経験がないということでした。そのため、参照や引用とはどういうことか、丸写しとはどこが違うのか、文献を参照や引用してレポートを書くとはいったいどういうことかがわからなかった、ということでした。悪気はなくただ知らないだけだった、ということです。これをうけて今年は、レポートの章立てその他を厳密に指定した上で、一時限を割いてレポートの書き方をみっちり講義しました。その甲斐あってか、丸写しのレポートはほとんどなく、大半が満足のいくレヴェルのレポートでした(ただし、提出されたレポートの数は激減しましたが)。その他、教養演習でも図書館を利用させていただいています。

 大学入試までは一律の教科書(つまり情報源)が既に用意されており、皆が同じことを覚えることを競います。そして、多く正確に覚えた人が優秀とされました。大学に入った後は、一律の教科書がない問題、人によって別々の問題について取り組むことが多くなります。卒業論文しかり、社会に出てからのレポートや報告書作成もしかりです。そうなると、覚えることよりも、資料を収集したり活用したりする力が大切になります。こういった意味で、大学時代は今まで行ってきた「勉強」の概念を大きく変える重要な時期だと思います。


gakujo@lib.fukushima-u.ac.jp

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