福島大学附属図書館報 『書燈』 No.31(2003.10.1)

書燈目次⇔⇔次記事

菩薩の心腸
澁澤 尚

 「彼が書物を愛する理由は、それが書物であるから」とは、G.フローベールが学而の頃に、スペインの怪僧ドン・ヴィンセンテの盗書事件を下敷きにものした『愛書狂』の主人公、ジャコモ描写の一節です。これは、書物をソフトウェアとしてのみ捉えているむきには少々難解な問答になるでしょうが、書物のハードとしての面にこそ異様な興奮を覚える、書名どおりの愛書狂、“Bibliomanie”にはいかにも合点のいく一言であろうと思います。

 私自身は、たまさか木活鉛活の凹凸を指でなぞって、酔余ぽつねんと心を落ちつかせることはあっても、なにも貴書珍籍を蒐集する書痴である、などというつもりはごうもありません。それは、書痴を意味する「蠹毒」という、いかめしく、なにやら不治の病を思わせる漢語を知り、またそれに罹患し、時には一書に一命を捧げた古人の事蹟をあまた聞きかじってもいるからで、私にはそんな深刻な末路を予見させる、少なくとも自覚症状はないのです。

 蠹とは蠹魚、すなわち本をむしばむ紙魚のこと。中国周代の礼制に仮託した経書『周礼』には「蠹物を除くを掌る」翦氏なる専門官が想定されていて、いにしえ蠹害は由々しき事態であったことがうかがわれます。これらの語は、現代のように紙魚も喰いあぐねる洋紙の平べったい非活版書物が大半を占めれば、いずれ雅な時代を郷愁をもって語るに用いられる以外には、曝書(本の虫干し)などということばとともに一括して死語になるのでしょう。いわんや増大する電子化された「ショモツ」にはまったく不釣り合いなものです。

 さて、ややもすると陰湿なひびきをもちかねないビブリオマニアや蠹毒なぞよりも、“本好き”くらいが健康的でよろしいのでしょうが、いやしくも書物と向きあう時間の多いであろう大学生であるならば、我劣らじと書物、さらにその宝庫である図書館とつき合いたいものです。私は、飲みしろ以外は削っても本は無理して自分で購う主義なので、実のところ図書館に対し冷淡な方だと自認しています。それでも、ときおり図書館の本がぞんざいに扱われている痕跡を目のあたりにすると、嗟嘆ひとしきり、なんとも悲しくなります。レポートか何かで利用したのでしょうか、手沢に値しない無意味な書込や傍線、頁の折りに気付くにつけ、他人のものを傷つけている云々よりも、この人にとって書物は情報を切り取るソフトウェアでしかないのだ、という一点のみで暗然となるのです。いくらデジタル化が進行している時代とはいえ、紙の書物を大切にする心は是非とも残したいものです。それは自分の専攻する学問に対する姿勢にもつながると信じています。

 書物の体裁や外観にばかり眩惑されたジャコモになるのは薦めません。しかし、閑ある学生時代、ハードとしての本の魅力にも少しく毒され、ひがな一日図書館を逍遥しつつ自分なりの、いわゆる“ideal book”(理想の書物)を探す、また韋編絶たれた片隅の古書に慈愛の目を向ける、そんな贅沢な時間を過ごすのもさほど悪いものではない、と思っています。清代の文人、張潮は『幽夢影』において次のごとき雋語<アフォリズム>を吐きました。

 「月の為に雲を憂え、書の為に蠹を憂うは、真に是れ菩薩の心腸なり」(月が雲に遮られるのを哀れと思い、書物が紙魚に蝕われるのを哀れと思うのは、まことに菩薩の慈悲心というべきものである)。

(教育学部助教授)

書燈目次へ