『書燈』 No.20(1998.4.1)

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読書の魅力 館長 長尾光之


 コンピュータが普及しはじめたころ、紙の使用量が減るのではないかと言われた。ところが、紙の本はいっこうに減りそうにもない。オフィスには以前にも増して紙があふれかえっているし、都会では大書店がつぎつぎと開店している。インターネットなどをはじめてみるとその便利さには驚かされる。本学の図書でも相当量の図書がコンピュータで検索できるようになったし、学外につながるネットワークを使うとどこの図書館に自分の求めている本が所蔵されているかが、瞬時にわかるようになった。電子ブックも増え、図書をめぐる環境もしだいに変化している。しかし、電子化が進んだとは言っても紙の本の魅力にはなかなか捨て去りがたいものがある。

 われわれ教師は本を読むことが仕事のようになってはいるが、やはり、楽しみとしての読書にも魅力を感ずるものだ。ときにはそのさかい目がはっきりしなくなることもしばしばである。その事情は学生諸君でも同じようなものだろう。受験勉強などのために読みたくもない本を読まなければならないこともあるかもしれない。けれども、一度読書の魅力にとりつかれ「楽しみとしての読書」の味を覚えるとその人はもう一生本からは離れられなくなる。まだ読書の魅力を知らない人よ、ぜひその楽しみを覚えてほしい。読書はあまりお金もかからず、尽きることのない泉のように奥の深いものなのだから。

 子供のころから本が好きであった。ごくたまに買ってもらった本はそれこそボロボロになるまで繰り返し、読んだ。動物語を解する医者が主人公である井伏鱒二訳の『ドリトル先生シリーズ』などもこのような本だった。中学生のとき国語の先生が夏休みの補習授業の時間に世界の名作シリーズのダイジェスト版をテキストに、数十冊の本を簡単なストーリーとともに紹介してくれた。「世界にはこんなにも面白い本が沢山あるのか」と感じ入り、「よし片端から読んでやろう」とひそかに決意した。本を沢山もっている同級生と友達になり、毎日のようにその家に通い、あまり行きすぎて出入り禁止になったこともあった。そのころ読んで印象的だったのはアメリカ人パール・バックが書いた中国を舞台にした『大地』だった。高校にはいると中学校よりはやや規模の大きい図書室があった。このころからはもう脈絡もない乱読に近くなり、学校の勉強よりも熱心に自分の面白いと思った本を手当り次第に読んだ。3種類ぐらいある世界文学全集を片端から読破したりもした。振り返ってみるとこのころから少し体系的な読み方を無意識のうちにしていたことに気づく。それは一人の作家を決めるとその作家の作を手に入る限り読むということである。それは、作家ではなくジャンルのこともあった。このようにして、サマセット・モーム、魯迅、老舎、漱石その他もろもろを制覇した。SF, ミステリーにも凝り、大阪で開かれたSF大会にでかけたこともある。ちょっと渋いところでは、エリン、ダールなど……。

 大学の研究室に入るとイヤでも中国の文献と付き合わねばならなくなった。数年たつと中国に現在残されている膨大な文献が自分の専門に関してはひとつの体系を持って存在しているということがおぼろげながら感じ取れるようになってくる。しかし、このころからますます仕事としての読書と楽しみとしての読書とは一線を画するようになってきた。仕事の資料としての本ははじめから終わりまで読み通すことはまずない。必要な部分だけを抜き書きしたり引用したりするだけのことが多い。まとまった時間がとれたとき、ソファーで専門外の本を読む楽しみはなににも変えがたい。作者を言えば加藤周一であり、西口克己であり、藤原審爾である。

 

 


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