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「新しい共同体」 |
同じことは、「新しい共同体」についての大塚先生の展望のなかに も読みとれます。「『むら』共同体がつぶれてしまったあと…人び とが砂粒のようにバラバラになってしまう、それが共同体の解体で |
(アソシエーション) |
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あり歴史的に望ましいことだ、などとは私は考えていません。
むしろ、日本の現状がそういう方向に動いていることを憂えているのです。」近代化のプロセスにみられたインディヴィデュアライゼーションは、プライバタイゼーション、あるいはアトマイゼーションではなかったという丸山真男の指摘と重なる議論ですが、こう述べて大塚は、「市民社会と民主主義にふさわしい新しい共同体」を提言しています。それは内と外の区別、身内と余所者の差別を持つ村共同体の復活、そういう経済的共同体の系譜を引くものではなくて、さしあたり「宗教的共同体の系譜を引いてその世俗化のなかから生まれてくる『社会的共同体』」を原型とするもので、歴史的にはゼクテが世俗化してクラブを生み、コミュニティをつくりだす、その過程がモデルとされているのです。市民のボランタリーな結社としてのアソシエーションが連なるネットワーク型の社会、そういう社会原理が、管理型システム社会の鉄の檻へのカウンターバランスとして求められ構想されている。そうした二つの、システム化とネットワーク化の合成物として現代社会、その未来像が、形式的・実質的な合理性のバランスし合った構造として展望されているのだと思います。 もちろん大塚は具体的な現代社会像、未来社会像を描いているわけではなく、現代社会論・未来社会論の本格的な展開は後進の課題にゆだねられています。 ガーベ(成果)として与えられているのではなく、アウフガーべ(課題)として提示されているというべきなのでしょう。 しかし大塚のこうした歴史的な「現代」への鋭い「現在」的関心は「現代(その病理)の超克」を射程におく「超現代」の立場であり、歴史的「現代」に対する「現在」的な批判として大きな意味をもっています。 |
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