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無知もまた罪  −大塚久雄の人と学問−

 
 最後になりましたが、大塚の場合、歴史研究の出発点となった強烈な現在的な関心は、その背後に究極的理念、すなわちキリスト教信仰があって、支えとなっていました。 この究極的な理念と社会的現実(人間の悲惨の認識)との激しい緊張の意識が根底にあったのだと思います。学問の奥にあって学問を超え、あるいは学問自体を支える究極の内面的価値について、ここでは立ち入る余裕はありませんし、また私にはその資格もありません。 ただ、こういう「究極的な理念」を「社会科学の研究」へとつなげていく、そういう契機が、大塚先生の場合、「無知もまた罪」という強烈な責任倫理の立場だということは確かだと思います。大塚は、「もし現代のキリスト者が、ただひたすら『心情』の世界にのみたてこもるのでなく、この現実の世界の文化状況に責任をもち、したがって『無知』もまた罪であるとの立場に立つならば」、「究極的な価値への『信念』と同時に社会科学的『知識』が必要であり、前者と後者は緊密に結合される必要がある」と説いています。歴史としての現代をとらえる観点だけでなくて、昏迷した意味喪失の時代に生きる心構えも遺して旅立たれたのだと思います。

結び  −要旨−

 お配りいただいたパンフレットに「大塚文庫の創設に寄せて」というつたない小文を寄稿させていただきました。それが今日お話ししたことの大筋になるかと思います。

 大塚久雄は、日本人の目で欧米市民社会の形成史を凝視し、「近代化」とその「人間的基礎」につき多くの新しい概念装置を開発して、比較史研究におけるパラダイムの転換を促してきた。また、そうした広がりで社会経済史の研究を進めるには「社会科学の方法」の再検討も必要だったから、早くから「マルクスとヴェーバー」のテーマと取り組んだ。さらに「南北問題」「経済大国と談合的文化」「経済的繁栄と精神的貧困」「自然と社会の接点におけるバランスの喪失」など、現代資本主義が生み出した「形式合理性文化の根底的な非合理性」を解明し克服しようとする問題関心から、ヨーロッパ先進諸国の最盛期の経験や事実にもとづいて形成された社会科学を相対化し、細分化しタコツボ化した学術のあり方を批判して、実践的で総合的な社会科学の「一般理論」を構築することを課題とした。

 経済学の文化的限界が問われグローバル化の倫理が問われる現在、大塚の業績とその培養土壌となった貴重な文献・資料類が一室に収蔵・公開されるのは、実に意義深いことと思います。しかもそれが、大塚が教壇に立った東大や国際基督教大学でなく、地方に立地する福島大学の関係者の識見と熱意、尽力によるというのも特筆に値いすることで、ここで改めて深くこうした文庫の開設に力を尽くされた方々にお礼を申し上げたいと思うのです。 内村鑑三は真に「読むべきもの、学ぶべきもの、為すべきこと」は権威ある講壇、つまり文化的な中枢ではなく、「田園より、又は工場より、又は台所より来る」と、文化的な辺境がもつ革新性について述べたことがあります。 大塚文庫が21世紀における学術と文化の革新の根拠地になることを夢み、また福島大学が地方の時代、地域の時代の先駆けになることを願って、私の話を終わらせていただきたいと思います。時間を超過しましたが、ご清聴いただき、ありがとうございました。

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